
日本橋道場縁起
南無妙法蓮華経
第二次世界大戦末期・昭和20年3月10日、アメリカ空軍の焼夷弾攻撃は熾烈を極め、東京の大半は焼け野原となり、死者10万の犠牲者を出しました。
当時戦災地の中に「妙法電気株式会社」渡森社長の事務所がありましたが、社員は九死に一生を得て逃れましたが、事務所は跡形もなく焼失しました。
それより5ヶ月後、8月15日、日本建国以来未曾有の敗戦降伏。物資も食料も少なく暗澹たる道を歩むことになりました。
かねて御師匠様の御教訓を受け、法華経の熱烈なる信者であります渡森社長は、日本国再建は法華経の道場建立にありと大菩提心をおこし、事務所跡に精舎建立の誓願をたて、故郷・栃木県日光市へ戻り、東照宮に出向き、日光街道杉並木の大木を是非ゆずり受け度き旨、交渉に入りました。東照宮役員も、会議の上、意のある処を了承快諾、大木2本を切り出し製材、東京へ運びましたが、大工さんが居りません。再び日光へ戻り、少年時代の同級生が東照宮お抱えの宮大工棟梁をして居りますので懇願交渉、これまた快諾、左官、建具、板金職等10名余り上京、並びに在京の御出家の助力、終戦7ヶ月後に広漠たる焼け野原の東京中心地に道場の涌現を見ることが出来ました。昭和21年3月16日尊師様大導師のもと落慶法要が営まれました。
あたり一面、これが東京都心かと思われる程渺々たる焼け野原、高いものは焼ビルの残がいだけ、此処に日本山妙法寺日本橋道場が忽然と涌現、法鼓のひびきは天地に轟き、すみだ川にこだまし、日本国再建、立正安国の御祈念道場が発足致しました。以来ここに35年代々御守護先師の御苦労を偲び、佛恩師恩施主の恩に感謝し、ささやかながら報恩会を営み拙文の縁起をしるし記念と致します。 合掌
日蓮大聖人七百遠忌聖年
昭和56年3月15日

現在の新しい道場の建物は昭和62年に開堂供養されました